大阪市は、大阪府、近畿地方および西日本の行政・経済・文化・交通の中心都市であり、市域を中心(首位都市)として、大阪都市圏および京阪神大都市圏が形成されている。大阪市の2016年度の市内総生産は約20兆円で[1]、政令指定都市中最大であり2倍から3倍の人口を擁する北海道や千葉県、兵庫県など1つの道府県の県内総生産を上回る[2]。京阪神大都市圏の圏内総生産は、国内では首都圏に次ぎ、世界的にも上位にある[3]。また市内の従業者数、事業所数、上場企業本社数は共に国内2位である。夜間人口は横浜市に次いで全国2位の約270万人、人口密度は全国の市で5位(政令指定都市中で1位)、昼間人口は市外から多くの通勤・通学者が流入するため約354万人。面積は全国に20市ある政令指定都市の中でも川崎市、堺市、さいたま市に次ぎ4番目に小さく横浜市のおよそ半分、名古屋市のおよそ3分の2程度であるが政令指定都市の中では行政区が24区と最多であるため面積が10km2に満たない行政区がほとんどである。近年では都心回帰が顕著で、大阪都心9区(北区、中央区、西区、天王寺区、浪速区、福島区、都島区、淀川区、阿倍野区)を中心に増加傾向にある。また、都心9区ではマンションやホテル用地、商業地の需要が高いため地価が高騰している。
古代から瀬戸内海・大阪湾に面した当時の国際的な港である住吉津や水の都と称された難波津などのある外交に関連した港湾都市として栄え水の都と称され、古代の首都としての難波宮、難波京などの都城も造営された。中世には、浄土真宗の本山であった石山本願寺が置かれ、寺内町として発展した。近世初期には豊臣秀吉が大坂城を築城し、城下町が整備された。江戸時代には天領となり、江戸をしのぐ経済・交通・金融・商業の中心地として発展。天下の台所と称され、豊かな町人文化を育んだ。明治時代に入ると、繊維工業(船場の繊維街なども有名)を中心とした工業都市となり、「東洋のマンチェスター」、「煙の都」と称された。戦後も長らく経済に関しては東京をリードする立場が続いた。[要出典]
第二次世界大戦後には、重化学工業の比重が高まり、今日も阪神工業地帯の中核を担う。他方で、卸売業を中心に商業活動も活発で、道修町(薬種)、松屋町(玩具)、本町(繊維)など市内各所に問屋街が発達している。また中之島や北浜界隈には、金融街が形成されている。市役所の所在する中之島から大阪城にかけては、官公庁や公的機関が数多く立地している。問屋街の伝統は、戦後高度成長期から21世紀初頭まで、9大総合商社といわれたうち6社(1974年以前は10大商社のうち7社)が大阪市に本社を置いていた歴史にも反映されている。反面、東京や京都に比べ戦前より学都としての側面がやや弱く(大阪帝国大学は帝国大学としては外地のそれらより後に設立された)、大阪大学、関西大学、近畿大学など市外に大部分の拠点を置いている大学も多い。
日本の民間研究所が2016年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、世界22位と評価された[4]。また、アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界51位の都市と評価された[5]。日本では東京に次いで2位である。イギリスのシンクタンクが発表した2017年の報告書によると、世界15位の金融センターと評価されている[6]。